アニメが好きで毎日のように多くのアニメを予約録画して見ている夫。


ドラキュラが登場するアニメでも見ていたのでしょうか、突然こんなことを聞いて来ました。




夫「もう2度と昼間は外を歩けなくなっても、永遠の命がもらえるのならもらう?」


私「もらわない」


夫「え! どうして? 俺は永遠の命をもらえる方がいいけど」


私「太陽の下を歩けないなんて嫌。 それに自分以外はみんなこの世からいなくなるのに自分だけ生き続けて、例えば1500年前はこうだったんだよ~って話をしても周りは誰もわからないのだから」


夫「へぇ~ 全然感覚が違うもんだね」


私「長く生き続ける目標とかもなしに、ただ長く生きても意味がない」




と、まぁいい年をした2人でこんなやり取りをしました(苦笑)









それこそ20代ぐらいまでは「何のためにこの世界に生まれて来たのだろう?」なんてことをよく考えていました。


この世に人間として生命を授かったからには何か意味があるはずだ、このために生まれて来たのだという使命のようなものがあるはずだ、とそんなことを時々考えていたのですね。




今でこそ明るく前向きな私でも、すごく嫌なこと、悲しいことがあってなかなか乗り越えられなかった時は「もう死にたい」と思ったことも何度かあって。

(今思うとつまらないことで悩んでいたので、死ななくて本当に良かったと思います)




もちろん実行に移す気は全くなかったのですが、それはやっぱり悲しむ人の顔がどうしても浮かんでしまうから。
それに本来怖がりの私は自ら命を絶つとか無理。




そうして辿り着いた考えが、


別に使命なんて背負う必要ない 


この世に生まれたから死ぬまでただ生きるだけ 


定められた運命もない



生きたいように生きられる


生きる意味(目標)は自分で考えればいい




という感じで、今は本当に「好きなことをしてやりたいことをやって、穏やかに平和に楽しく生きたい」となっています。





歴史に名を残す立派な人もいますが、全員がそこまでのことができるわけじゃない。
歴史上の人物だって、生きている時はただ一生懸命その時代を自分ができる精一杯のことをして生きていただけ。



たまたまそれが英雄のように語り継がれ、歴史の本に掲載されたりその人物が主人公の本や映画が作られたりしただけで、生きる目標が『歴史に名を残す』ではなかったでしょう。





若い頃は自分がこの世に生まれた何か証のようなものを残したいと考えた時もあったけど、死んでから有名になったりその絵が認められ高額で売買される画家もいて、いろんな思いや願いを抱えていても「死んだら自分にはわからない」


そう思うと、別にそんなものを残せなくても楽しく過ごしながら寿命を全うすればいいや!に意識が変わりラクになりました。





目標を持ってそれに向かうのはとても大事なこと。



だけど目標や生きる意味に縛られて、毎日がしんどい、楽しいと思えない、生きることが辛いと思ったりするのなら、そういうものに拘らず、自分がラクに生きやすさを感じる道を歩んでもいいんじゃないかなぁと思います。




過去がどんなに辛かったとしても、今から未来に向けては自分次第でいくらでも楽しく生きることはできます。



「私は幸せになれない」は思い込みで、確かに辛い状況、苦しくて大変な状態というのはあるけどそれは『不幸』ではない。



『しあわせ』が状態のことではなくそう感じる心次第なように、『不幸』というのは自分が決めつけているだけ。




幸せだと思えば幸せだし、不幸だと思い込んでいるから不幸に感じるだけなのです。



(☟こちらも合わせてお読みください)
幸せは、探すものではなく感じる心を持つこと

幸せになることが怖いのは、過去の記憶のせい

その決めつけが幸せの邪魔をする


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