私が住んでいる市は何年か前から犬猫の殺処分ゼロを目指していて、譲渡目的の保護センターを開設したりしています。



近所には地域猫と呼ばれる、捨てられたりたまたま住み着いた猫を地域の人たちで見守りましょうという猫が何匹かいます。



みんな耳の先を小さくカットしていますが、これは『さくらカット』と呼ばれ地域猫の証のようになっていて、これ以上飼い主のいない猫が増えないようにと市が助成金を出し去勢手術済です、という目印になっています。




そんな地域猫の中には人懐っこくてナデナデさせてくれる子が何匹かいて、私も毎日何度もナデナデして声をかけて可愛がっている子がいるのですが、ある日突然来なくなりました。



それまで毎日多い時は1日5・6回は姿を見せて「なでて~」と寄って来て足元でゴロゴロしていたのに、急に全く姿を見せなくなったのでとても心配しました。




3日間姿を見せなかっただけで今はまた姿を現すようになりましたが、その子がいなくなった時、可愛がっているのは自分、愛情を与えているのは私の方だと思っていましたが、ずっとその猫に私の方が癒しとか毎日の幸せな時間を与えてもらっていたことに気づきハッとさせられたのです。




動物がお腹を見せるのは信頼の証






例えば子育て。
私は経験していないので説得力がないかもしれませんが、子供を育てているようで子供から教えられることも多く、親の方も子育てにより人としてさらに成長すると聞いたことがあります。



まさに愛情を与えているようで子供からもたくさんの素晴らしい経験や幸せな日々を与えてもらっているように思います。




だからそんな風に思えない人が育児放棄したり自分の子を虐待したり毒親になったりするのかな。



つい最近も17才の兄が6才の妹を暴行死という悲しいニュースが流れて来ました。


4月までそれぞれ施設にいて、4月から母親と3人で暮らすようになったものの、母親は(おそらく仕事)不在がちで6才の妹の面倒はずっと17才の兄が看ていたのだとか。


暴行を認め世話をするのがしんどかったと語っていると知り、こんなに悲しい話はないなと思いました。




母親の事情はわからないのでここで勝手に決めつけ責めるようなことはしたくありませんが、こういうニュースが1番辛い。



とてもデリケートで難しい問題だけど、子供の虐待死というニュースを見る度に、あんな惨いことをしてしまうのならどうして産むという選択をしたのだろうといつもやるせない気持ちになってしまいます。




身近にいる空気みたいな存在になっている人に対しては、いるのが当たり前でいつまでもその人と一緒の時間は続くと思ってしまいがちですが、本当はそんなことはなくて、毎日何事もなく平穏無事に暮らせているのなら、それだけでとても幸せなことなのですよね。



つい自分の方が何かをしてあげている、自分ばっかり与えているという錯覚を起こし、イライラしたり感情をぶつけそうになりますが、いなくなってからその存在の大切さに気づくということはあると思います。




たった3日間会えなかっただけで、私は前よりももっとその猫を愛しい存在に思うようになりました。



与えていることより与えてもらっていることに気づけたら、ほとんどの相手には感謝の気持ちが1番に出て来るのかな?と、またナデナデできる幸せを満喫しながらそんなことを感じています。



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