久しぶりにある場所の前を通ると、見慣れない建物や店などが新しくできていることに気づくことがあります。
このような建物はなく、何か違うものがあった。
でも前にそこにあったはずの何かがどのようなものだったのかは覚えていない。
自分が気に入っていた場所やよく通っていた店が無くなると、(あっ 違う店に変わっている!)と気づくのですが、ただ何となく目に映っていただけの場合、何度も見ていたはずなのにこんな風に覚えていないということになります。
これは建物や店に限らず、身近にいる人や自分に対しても似たようなことが起こります。
20代前半ぐらいまで徐々に視力が落ちて行った私は、自分がよく見えていないことに気づきませんでした。
健康診断で視力が「0・7ですね」と言われても、他の人がどのように見えているのかがわからないので、少し離れて見るものが全てぼんやりしているのは普通だと思っていました。
だけどあるアーティストのコンサートに行った時、前から2・3列目というすごく良い席だったのにアーティストの顔がぼやける。
さすがに「これはおかしい」と、のん気な私も気づいたので眼科に行き眼鏡が必要なレベルと知りました💧

眼鏡を作り、初めて自分の顔を見た時の衝撃。
こんな顔をしてたのか・・・。
外に出てもあらゆるものがくっきりハッキリ見えて、まるで初めて見る世界でした。
親の顔も友人の顔も、長い間ぼんやりとしてしか見えてなかったので、誰もが別人のようで新鮮な気持ちでマジマジと見ていたのをよく覚えています。
しっかりしている人なら私のような間抜けな体験をするまでもなく、視力が落ちたことに気づくでしょうし、その時点で眼鏡かコンタクトを使用すると思います。
でも私はこの間抜けゆえの体験のおかげで、改めて周りにいる人や物をただ目に入れるだけじゃなく、しっかりと見ることにより感じ方が変わって来たり、ちょっとした目の動きや表情からその人の内面の変化に気づけるようになりました。
英語も日本語も、「みる」という単語はいくつもあります。
「see」(自然に目に入る)= 見る
「look」(意識して見る)= 視る
「watch」(一定期間意識的に動きを見る)= 観る
この使い分けをしっかりして行くことで感じ方が異なり世界も広がるように思います。
住み慣れている地域の中で、いつでも行けると思ってまだ行ったことのない場所だってあるし、こういう人だと思い込んでいる夫のことも先入観なしでよくよく観察してみると意外な一面に気づいたり、何度も会っている友人のこともいつもと違う意識で話を聞いているうちに、こういう考え方がベースにあったのかぁとわかったりします。
そして身近な人との会話の中で、相手が自分に対してかける言葉を適当に聞き流したりせず、ちゃんと拾い集めると、その人には自分がどのように見えているのかにも気づけるのです。
しっかりと意識して見ようとしないと見えて来ないものがあります。
つい、いつもの感じで軽く見てしまうものでも、じっくり観察すれば何か発見がある。
自分が見たいように見ると、それは自分のモノサシで人を量るのと同じになります。
人や物事を正しく理解するためには、いろんな角度からLOOKあるいはWATCHすることが必要だと思います。